北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

第二波襲来、緊急事態宣言の必要性を考える ~ 日本には「世間」あって「社会」なし

   現在第一波を上回る感染拡大に直面して、「自粛要請」「休業要請」「研究事態宣言」などの発令を求める声が大きくなってきている。これらは必要だろうか。あるいは必要だとすれば何故必要なのだろうか。この問題について掘り下げてみたい。

  ■ 感染拡大を抑える方法(おさらい)

  まず、新型コロナウイルスの感染拡大を抑制する方法についておさらいしておこう。
原理的に言うと感染を拡大させない方法は感染者と非感染者が接触しないことしかない。これを実現する方法は二つである。第一は、感染者を歩き回らせないこと、すなわちPCR検査を徹底的に行って、陽性者を徹底的に隔離することである。しかし、第一の方法が不完全である場合、日常生活において、誰が感染者かわからない状態になる。とりわけ新型コロナの場合無症状の感染者(不顕性感染者)が大勢いることを考えれば、このような状態が通常になる。したがって第二の方法は、人間全体の接触機会そのものを下げること、すなわち移動や行動そのものを抑制することである。この第二の方法に実効性を持たせる手段として、「自粛要請」や「緊急事態宣言」などが求められているわけである。

 ■ 「世間」の力

 それではなぜ政府や知事による「要請」や「宣言」が必要なのであろうか。人々が自分たちで他人との接触機会を減らすために自身の行動を抑制すればよいだけではないか。公的な「宣言」、しかも何等の罰則もない宣言が必要なのはなぜであろうか。以前のブログで述べたように、多くの人がコロナに対する恐怖を感じていたとしても、数パーセントの人たちは必ず無防備に動き回る。まして若者は重症化しないという安心感が広まっている現状では、コロナに対する恐怖感は相当薄れているため、6~7割の人たちはたいした対策もせずにビフォーコロナの活動を行なおうとする。 

  ここで登場するのが「世間」の力である。これは日本ではコロナに対する恐怖よりも強力に作用する。社会の一員として自分が果たすべき役割を自分自身で考えて行動するという習慣は日本には存在しない。日本人に最も強く作用する規範は、「他の人はどうしているか」「周りからどう見られるか」ということ、すなわち「世間」である。個人としてはある程度反逆できても、組織的な意思決定としてこの「世間」というものに抗うことは、日本ではほとんど不可能であろう。緊急事態宣言や自粛要請はこの「世間」を強力に一つの方向に向けることができる。「世間」が一つの方向を向くきっかけで最も大きなものは、「お上(おかみ)」が言っているからというものだからである。無防備に動き回る人たちの動きを止めたいと考えている人々は、実効性をもって目的を達成するためには「世間」の力を活用するしかなく、そのためには「お上」の出番だというわけである。

  ちなみに一般的には「世間」を動かすもう一つのきっかけは、マスコミによるキャンペーンだが、これは最近ではあまり「世間」に対して効果を発揮しない。むしろマスメディアより先にインターネットによって「世間」のながれが形成されることが多いからである。

 ■ 「緊急事態宣言」はもろ刃の剣

  しかしながら前回の緊急事態宣言を見てみると、そこに大きな危険性があることがわかる。それは止める(解除する)時の問題である。「お上」の言葉が「世間」の動向に強力に作用する分、止める時も強力に作用する前回の緊急事態宣言解除時にウイルスの危険が去ったわけでもないのに、「世間」はもう大丈夫なんだというながれに一瞬にして転換した。私は以前のブログの中で「新生活」「ニューノーマル」に向けた強いメッセージと共に解除すべきだと述べた。部分的にこれは行われてはいたが、ほとんど効かなかった。今回「緊急事態宣言」や「休業要請」を出しても、解除するときにはまた同じことを繰り返すことになるだろう。それでも、ウイルスの感染は「サイクル」であると割り切って、結果的に2か月自粛1か月活動を繰り返せばよいとする考え方もあり得るかもしれない。しかしそうであれば始めからこの「サイクル」に関して国民的な合意を採っておく必要がある。そうでないとせっかくの「お上」の言葉が「オオカミ少年化」してしまい「世間」に影響を及ぼさなくなるからである。

  ただし、現状の致死率のままであれば「サイクル」もあり得ると思うが、もし秋冬に致死率が上昇するとしたら、「サイクル」によって多くの人命が失われるかもしれないことにも思いをいたすべきであろう。危機管理の鉄則として、最悪の事態を想定して対策をシミュレートする必要があることは教科書レベルのものである。インフルエンザのようなウイルスであれば、空気が乾燥し気温が下がって人々の免疫力が落ちる冬場に、威力を増してくるのは極めて自然なことである。新型コロナウイルスがそうならないという保証はどこにもない。(現在冬である南半球のブラジル、ペルー、チリ、アルゼンチン、南アフリカなどの感染者数、死亡者数の急増を見ると、北半球でも秋冬に万全の警戒をするのは当然であろう。)

 ■ 今すべきこと

  したがって、「緊急事態宣言」と「サイクル型コントロール」の組み合わせでは危機管理上うまくいかない可能性が高い。それでは今政府は何を語り何をすべきなのか。あくまで危機管理の観点であるが、もっとも重視すべきことは「秋冬に向けて万全の備えをする」ということである。私のブログでこれまで何度も述べてきたように、「ビフォーコロナに戻ることを前提にしてはならない」ということをベースにして考えるべきである。今政府がやるべきこととして私が提案したいのは、「長期自粛要請」と「新生活宣言」の組み合わせである。医療崩壊を防ぐために感染者数を一定水準に抑え込む必要があり、このために活動の自粛は必要である。しかし解除すれば前述のようにすぐに「世間」が緩んでしまう。「少なくとも来年の春までは活動範囲を狭くしてください、人との接触を減らしてください。」と言うべきであり、それと併せてリモートワーク、オンライン授業、オンライン型娯楽などを徹底的に支援すべきである。最低でも「テレワーク続けてください」という「お上」の意向を強く伝えるべきである。

  このような提案をすると、「経済を回せ」という人たちから強い反論が来る。経済活動を縮小させると失業者が増大して多くの自殺者が出たらどうするのかと。これは弱者保護としての社会政策の問題であり、本来であればまずここにお金を使う必要があった。前回国民一律10万円給付の際に私は反対意見を述べたが、その12兆円の資金があれば1000万人の失業者に一人100万円ずつ配ることができた100万円もらえることが予想されるときに自殺する人はそう多くはならないだろう。もう一度同程度の財源を用意することは困難ではあろうが、それでも国民全体で負担してここにはお金を使うべきである。産業構造が急激に転換しなければならないときに摩擦的失業に伴う社会の痛みは国民全員で分かち合うべきである。観光業や外食産業を守るために税金を使ってはならない。観光であれ外食であれ再生力の高い産業なので、いったん衰退したとしても、アフターコロナに力強く復活するはずである。そのときにはおそらくVRシアター、AI接客、自動運転シャトルバス、荷物・お土産のドローン配送などの新しいシステムが次々に登場していることだろう。政府がやるべきことは、アフターコロナに飛躍するための力をためることであり、そのためには弱者保護とSociety5.0推進の組み合わせしかない。Gotoトラベル、Gotoイート、Gotoイベントなどの感染拡大キャンペーンによって経済を回そうとすることは、まったく真逆の発想であり即刻やめるべきである。これは経済を回すどころか2年後の日本経済をダメにする政である。政治家のみなさんは、臨時国会を開き徹底的に日本の将来について議論し、連日マスコミに顔を出して国民に語りかけるべきである。「お上」が「世間」に対する影響力を失ってしまう前に。
未来を創るためにまずは生き残りましょう!