北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

どうする日銀新総裁 ~進むも止まるもいばらの道

バレンタインデーに次期日銀総裁人事が公表され(先にリークあり)、24日には国会で新総裁としての所信が述べられた。戦後はじめて経済学者が総裁の地位につくことになった。あわせて副総裁の人事も公表された。このあたらしいメンバーで日本の金融政策はどうなっていくだろうか。あるいは今年の日本経済はどうなっていくだろうか。ポイントとなりそうなことについて掘り下げてみたい。

 

 ■状況整理 

 最近流行の大河ドラマに「どうする家康」というのがある。家康のキャラクターや生涯に新解釈を加えたドラマとして(個人的にはあまり好きではないが)評価を得ている。窮地に陥った家康が「どうしたらいいんじゃ!」と叫ぶことが定番になっている。いまの日銀の状況をみるとまさに「どうする新総裁」といったところであろう。インフレの上昇は収まる気配がないが、金融を引き締めて金利を上昇させれば多方面(選挙を控えた政治家、国債費上昇を抑えたい財務省、ゼロ金利でかろうじて生き残っている中小企業、ゼロ金利を当て込んで住宅を購入したローン債務者などなど)から袋叩きにあいかねない。かといって物価のコントロールを放棄してしまえば、中央銀行の存在意義を問われかねない。まさに新総裁ならずとも「どうしたらいいんじゃ!」と叫びたくなるところではないかと想像する。もともと日銀総裁として有力視されていたのは雨宮現日銀副総裁であった。黒田路線を継承しながら長い時間をかけて異次元緩和政策の出口を探ってソフトランディングを目指す、というのが既定路線と受け止められ、為替市場も安心感から133円前後で安定的な動きを示していた。しかし、一転して植田新総裁が発表されたわけである。このサプライズによって為替市場は一瞬128円台まで円高に振れたが、新総裁が金融緩和を継続する必要性に言及したことによって、すぐに133円台に引き戻された。真偽のほどは定かでないが、市場関係者の中では雨宮氏が辞退したのではないかということがささやかれている。むろん人事のことなので想像の域をでないが、さもありなんと思う次第である。いまの日銀のかじ取りは、だれがやってもいばらの道であり、できれば逃げたい気持ちは大変理解できる。

 ■新メンバーの横顔 

 これからの日銀の政策を占うために新しいメンバー(総裁、副総裁)の横顔を見ておこう。
 まず植田和男である。戦後初の学者出身の総裁ということだが、実際植田氏は並みの経済学者ではない。マクロ経済学の分野では超一流の経済学者である。東京教育大学附属駒場高校(現筑波大付属駒場高校)から東京大学理学部卒、同経済学部に学士入学の後、マサチューセッツ工科大学(MIT)でPh.Dを取得という華麗な経歴である。彼が大阪大学助教授として日本に帰ってきたころ私は大学院生として経済学の勉強に励んでいた。植田氏は新進気鋭のマクロ経済学者として評判になっており、私も彼の論文や著書を夢中になって読んだことを覚えている。学会などで何度も見かけたが、おしゃれなジャケットを粋に着こなし、とにかくかっこいい学者というイメージであった。遊び人としても知られており、日銀政策委員会審議委員を務めていた時に、公用車をつかって六本木の高級クラブ通いをしていると週刊誌などに攻撃されたこともあるくらいである。
 日銀の今後の政策を占うにあたっては、総裁だけでなく副総裁についても見ておく必要がある。副総裁に指名されているのは、現日銀理事の内田真一氏と前金融庁長官の氷見野良三氏の2人である。内田氏は先述の雨宮氏のサポート役として企画畑を歩いてきた日銀生え抜きの人選である。金融政策の実務的なスキームを設計する実務家中の実務家である。白川総裁のときはゼロ金利政策解除のスキームを設計し、黒田総裁に変わった直後には雨宮氏とともに異次元の金融緩和政策やその後のYCC(イールドカーブコントロール)の枠組みを起草した。「白から黒への転身」と言われることもあった。要するにどんなミッションを与えられてもそれを実現する施策を実装してみせる切れ味鋭い懐刀といったところである。もう一人の氷見野氏は東大法学部から大蔵省(現財務省)入省といういわゆるエリート官僚で、財務省では金融システムや銀行規制に多く関わっている。とりわけ200年代の国際的な銀行行動規制(「バーゼル2」)の枠組みを作る際には、日本の金融機関が妥協できる形に案をまとめ上げた手腕が高く評価されている。総じていうと内田氏も氷見野氏も金融システムの制度設計や政策スキームの立案に関して卓越した手腕をもった政策の職人と言う感じである。植田氏と内田、氷見野の3人を併せて眺めると、ものすごく頭のいい人を3人集めたという感じだと思う。

■どうする新総裁、どうなる日本経済  

 市場の感触では植田氏が早急な金融引き締めには慎重であるべきと記者団に語ったことが伝えられ、さらに内田氏の副総裁就任で黒田路線がしばらくは継続されるのではないかと言う安心感がながれており、為替相場も134円台で推移している。24日には国会で新総裁としての所信が述べられ、あらためて現在の日銀の政策の適切さ当面は金融緩和を続けていくことなどが述べられた。株価は300円近く値上がりした。為替市場は織り込み済みとしてほとんど反応していない。このまま黒田路線は継続されていくのだろうか。

 同じ所信表明の中で植田氏は賃金上昇への期待と、インフレ率が2パーセント程度で安定してくれば金融政策を「正常化」する必要性などについても言及している。しかし実態はそれほど楽観的な状況では到底ない。同じ時間に発表された1月のわが国の消費者物価指数の対前年同月比は4.3パーセント上昇で、41年ぶりの高水準である。多くのエコノミストたちが為替相場の安定と政府の物価高対策によってすぐにインフレは沈静化すると読んでいる。しかし私は今回のインフレの鎮静化はそれほど簡単ではないと思っている。企業物価の上昇が現在も10パーセントを越えているるが下流に向かって価格転嫁できない状況が続いている。それに追い打ちをかけるようにどこの企業も政府主導の賃上げ圧力をまともに受けている。企業側からするとある程度競争力のある商品の価格は片っ端から値上げするしかなくなりつつある。コストプッシュ型のインフレには違いないが、ガソリン代や電気代を多少抑えても全体のインフレ率を抑制するのは容易ではない。

 インフレ率が5パーセント、6パーセントと上昇する状況でも、「インフレは短期的なものだ。」と言い張って金融緩和+YCCを続けたらどうなるだろうか。資本市場では「日銀はいつか金融皮を止めるはずだ」という思惑が日に日に膨らんでいき、多くの債券市場で円建て債券の空売りが横行することになるだろう。日銀はこの圧力に必死に耐えなければならないが、市場は日本のインフレが続いている限り日銀がギブアップするまで圧力を緩めることはない。結果的に金利はじわじわと上昇を続け、結局日銀は長期金利固執したYCCを放棄せざるを得ないことになるだろう。インフレが続くのであれば日銀がマーケットに勝つことはできない。そもそもインフレを放置したまま金融緩和をやり続けるという中央銀行のスタンスは始めから存在し得ない。したがって、金融緩和+YCCを続けられるかどうかはインフレを早期に鎮静化できるかどうかにかかっている。しかし先に述べたように現状では短期にインフレを鎮静化させることはかなり難しいと思う。

 それでは早期に金融緩和+YCCを捨てていわゆる金融政策の「正常化」を行なったらどうなるであろうか。植田氏自身が過去に書いているようにYCCは微調整に向かない政策スキームである。上限を上げても上げても金利水準は天井に張り付き、市場は次の改定を求めてくるからである。したがってYCC自体を一発で廃止し市場の情勢に委ねるというのがもっとも妥当なやり方である。しかしそれをやると、金利は一瞬で2パーセント以上に跳ね上がり国債は暴落することになるだろう。現状においてマーケットにはそれだけのマグマがたまっているからである。住宅ローンの話を問題にする人が多いが、ポイントになるのは国債費の膨張であろう。金利が2パーセント上がると国債の元利支払いは数十兆円規模で膨らむ。もし金利が4パーセントになると概算で日本の税収を超えるため、ほぼ「返す当てのない借金」という見方をされるものになる。それでも政府は日銀引き受けによる国債の増発を続けるしかないが、そうなると国際金融市場では円を取引から除外する動きがおきると思われる。「円は信用できない」というレッテルを貼られるからである。ソビエト崩壊時のルーブル経済圏と同じように日本経済は瀕死の状態になることが予想される。

 両方のシナリオを眺めてわかることはそもそも日銀には有効な武器がないということである。武器がないにもかかわらず期待されているのは傍目に見ても大変気の毒な状況だと同情したくなる。あくまで占い的な予想の域を出ないが、しばらくは「現在の金融緩和を当面続けます。」という政治的な発言を繰り返すだろうが、インフレ率が高止まりするようなら、植田氏は意を決して「YCC止めます。」と言うのではないだろうか。インフレを放置した無能な中央銀行というレッテルを回避し、超一流の経済学者としてのプライドを守るのではないだろうか。

未来を創造するためにまずは自分自身を守りましょう。