北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

日本特殊論を考える - 「神州不滅」の正常性バイアス

 

日本に死者数が少ないのは「国民が頑張った」「日本人がまじめだから」という論調をよく聞く。それ以外にも日本人の公衆衛生意識の高さや生活習慣、人種や遺伝子など、日本の特殊性を強調した論調が少なくない。しかし、この日本特殊論はかなり危険な側面を持っている。今回は少しこの問題を掘り下げてみたい。

 

 ■ 実態をみる

 まず最初に確認しておくべきなのは、新型コロナによる死者数が少ないのは日本に限ったことではなく、アジア全体に言えることであり、またオーストラリア、ニュージーランド、西太平洋諸島地域なども同様に少ない。 しかもこれらの地域の中では、日本は死者数が多い方(人口10万人あたりの死者数)である。したがって、特別に日本だけが感染拡大抑制に成功しているわけでもないし、死亡者を低く抑える特殊要因があるわけでもない。 ただし、アジア地域で感染者数が低く抑えられる何らかの要因(しばしばファクターX(エックス)と呼ばれる)があるのかもしれない、という議論は成立する可能性があるので、引き続き科学的な究明を続けてほしいと思う。

 ■ 正常性バイアスとの融合

 それではなぜ、日本人の手洗いやうがい、入浴、くつ脱ぎなどの習慣、自粛に耐える日本人の我慢強さなどの日本特殊性に成功の要因を求めようとするのであろうか。日本社会や日本文化、あるいは日本人の頑張りなどをことさらに強調する風潮が出てくるのは、2つの背景があると思われる。一つは、政治利用でありもう一つは日本特有の集団的正常性バイアスである。

 まず、日本だけに限ったことではないが、成功体験を国民性や政策の特殊性に結び付けて自国の優位性を語る、というのは、どこの国の政治家も普通に行っている言動である。日本だけでなく韓国でも中国でも、あるいは最悪の経過をたどっている米国さえもトランプ大統領は自らのコロナ対策の成功を吹聴している。

 横道にそれるが、一言断っておく必要があるのは、日本が新型コロナ抑制に「成功した」かどうかはまだ全く確定できる状況ではない。北九州は第2波に類するものかもしれないが、東京は第1波のすそ野がめくれあがってきている印象をうける。評価をくだせる段階ではないと思う。

 話を元に戻して、政治家が政策や国民の優位性を語るのは選挙対策としては自然であるが、問題はこれが大衆の行動に影響を及ぼすかどうかである。このつながりを考える際に重要になるのが、わが国特有の第二の背景である集団的に発生する「正常性バイアスである。「正常性バイアス」とは、災害や事故などの危機に関して、「自分には影響がないだろう」 「自分の身の周りには起きないだろう」 と根拠のない感覚を抱くことを指している。行動としては自分たちに有利な情報だけを選択し、自分たちに不利な情報を無視してしまうという情報選択バイアスを生じさせることである。(正常性バイアスは本質的には想像力の欠落と関係していると思うが、この点については後の記事で別記したい。) 

 日本では正常性バイアスが大きな集団の中で発生しやすいと言われている。しばしば「平和ボケ」と称される現象である。(これ自体日本特殊論なのかもしれない。) 私は「平和ボケ」という言葉は好きではないし、正確でもないように思う。日本における集団的な正常性バイアスは戦前から存在するように思う。

 ■ 新型コロナに関する日本特殊論の危険性

 新型コロナに関して、「日本は特殊だから、ひどいことにはならないだろう」という漠然とした意識を多くの大衆が持っていることは今後2つの意味で極めて大きな危険を有している。一つは短期的な戦略に関わるものであり、もう一つは長期的な社会構造にかかわるものである。

 まず短期的なものとして、新型コロナ第2波、第3波で状況がひどいことになったとき、日本人の努力が足りない、真面目さが足りないからだ、という論調に簡単にシフトし、そこに多くのエネルギーが割かれることになりかねないことである。今回もすでに「自粛警察」「ネットバッシング」などの形で表れてきてはいるが、さらに状況が悪化すると、相互監視活動や治安当局の増長に簡単に繋がってしまうことである。「日本が勝つためには国民がもっと我慢しなければならない;欲しがりません勝つまでは」、これは太平洋戦争末期に政府が国民を統制するためにあおったものだが、国民自身も流れに乗らない者を非国民として弾圧したり、弱者に対する差別につながったりしていったことは記憶しておくべきものであろう。 危機に際して精神論で立ち向かうことほど愚かなことはない。戦略なき戦いは多くの場合悲惨な結果を生む。まさにB291万メートル上空を飛び交う下で、竹やりの練習を続けていた国民性をもう一度再現させてはならない。もしアジア系にファクターXがあるのであれば、徹底的に科学的探究を行うべきである。感染拡大防止のために必要な対策を徹底的に科学的根拠に基づいて語るべきである。

 もう一つの危険性である長期的な影響はもっと深刻である。何らかの成功体験を日本特殊論に結び付けてしまうと、そう簡単には「特殊性」を変えようとしないことである。日本の高度成長の原因を、日本的経営(終身雇用、年功賃金、企業別組合)や日本人の勤勉さ、日本の教育力の高さ、などに求める論調はこれまで多く聞かれた。これが真実であるかどうかはともかくとして、これを賛美している限り、日本企業がやり方を変えた方が良いという議論を発議することさえかなり難しいことであった。バブルの後、日本は世界から大きく取り残され、派遣や契約をベースにした格差社会到来に対する対策を国策として論じることもほとんど行なわれなかった。高度成長に対する日本特殊論の賛美は、失われた30年をつくり、日本をガラパゴス化させた遠因の一つである。

 今回の新型コロナに関しても、日本が特殊であるから危機を乗り切れたのだという前提に立つと、アフターコロナにおいても、何も変えなくてもよいのではないかという集団的意識の中で、気が付けが日本が本当にガラパゴスになっていまいかねないという危惧を抱いている。日本において小さな成功事例は数多くあるが、それらの中に「日本が特殊だったから」という事象は実際にはほとんどない。個別の事象の成功原因や背景を、科学的に徹底的に突き詰めて考えるということを、日本の大学や官僚は自分たちの使命として考えていかなけれならないと思う。日本は今まさに国家の将来を決める分かれ目に立っていると思う。

未来を創造するために、まずは生き残りましょう。