北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

アフターコロナ社会を考える2 ~イントロダクション

コロナ禍が長期化(少なくともあと1年)する可能性が高くなったいま、コロナ以後の社会を見通した議論を行い、今何をしなければならないかを考えることが大切だと思う。そろそろじっくり腰を据えてこの問題に立ち向かってみたい。

 

 ■ コロナ禍長期化がつきつけているもの

 実はコロナ禍がどの程度長期化するかによって、コロナ以後に変わるものがどの程度出てくるかが大きく左右されている。実際いまでも、「コロナが過ぎ去るまでじっと息を止めて、コロナが終わればまたコロナ以前のやり方で頑張る。」と考えている人たちは大勢いる。しかし、コロナ禍が1年以上続くとすると息を止めていることができない。どこかに向かって動き出さなければならない。 もともと始まった段階からコロナ禍が人類に突き付けているものが2つある。そしてこの2つが長期化によって増幅されていくことになる。一つは「非接触行動」であり、もう一つは「恐怖と闘うための集団化」である。 

 ■ 長期化により定着する

「非接触行動」  「非接触行動」は分かりやすいものであろう。新型コロナが沈静化したかに見えた6月ごろにテレワークを止めて出社型に切り替えた会社が多かったが、これらの会社でも、コロナ禍が長期化することによって、社内クラスターを起こす確率は自然に高くなっていく。長くなればいつかは集団感染を引き起こすかもしれない。(このような論理的に疑いの余地のないことであっても、なぜか身の回りのことになると「自分たちは大丈夫」と思ってしまう。この正常性バイアスによって、何も対策を考えない会社が極めて多いことは残念な事実であるが。) もし集団感染を引き起こせば、業務は停止し必然的にテレワークなどに切り替えざるを得なくなる。例えばテレワーク推進にあたってハンコを廃止して電子決裁に移行した会社は、コロナが終息した後に再びハンコを復活させることはないであろう。したがって、コロナ禍が長引けば長引くほど、不可逆的な変化が社会の中に定着していくことになるのである。このような構図は飲食店であっても学校であっても全く同様である。これらの「非接触行動」の中核を担っているのが情報コミュニケーションテクノロジー(ICT)である。したがってコロナ禍が長引けば長引くほど、ICTは社会におけるウエートを高めていくことになるだろう。このことは米中対立をさらに深刻化させる要因になっているが、この点については後述する。

 ■ 集団化の促進と仮想敵の危険性

  二つ目の「恐怖と闘うための集団化」はやや分かりにくい。人間は極度の恐怖や不安にかられたとき、頼るものを求めて、同じ方向を向く集団にまとまろうとする。まとまるのに最も手っ取り早い方法が共通の敵を仮想することである。この現象はときとして悲惨な結末をもたらす。例えばおよそ100年前の関東大震災の際に、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマのもとで、多くの朝鮮人が虐殺された悲惨な歴史を想起されたい。古代・中世の天変地異の際には、人心をまとめるのに宗教が大きな役割を果たしたが、現代においては宗教に依存した集団形成は起こりにくい。まして宗教が人々の価値観にほとんど影響を及ぼさない日本においては、さまざまな価値観の下に集団化が発生することになる。今現在、わが国の集団形成において最も大きな役割を果たしているのはSNSであろう。「アンチコロナ対策派」としてクラスターフェスやコロナパーティー、反マスク運動などを展開するグループもあるが、最も大きな集団は「世間」の一員であり続けようとする集団であろう。この集団の最大の価値規範は、「自分の行動が周囲からどれだけ批判されるか」というものである。この集団の共通の敵は、「世間」の外側にいる者である。先述の「アンチコロナ対策派」やコロナ対策に熱心でない政治家などがターゲットになっている。

 世界的に見ると集団化はさらに深刻な形で表れている。国家主義民族主義の台頭である。新型コロナ感染拡大の初期の段階の2月頃、欧米でのアジア人迫害については私の以前のブログで触れたが、最近の多くの国でみられるナショナリズムの台頭はアフターコロナ社会に暗い影を落としている。国家主義民族主義にとっての仮想敵は他国、他民族だからである。

 ■ 注目しておきたいこと 

 コロナ禍が長期化することによって社会に構造的な変化をもたらす本質的な2つの力、「非接触行動」と「恐怖と闘うための集団化」について見てきた。これらがどのような方向に社会を変えていくのかをとらえるために、注目しておきたいことを考えてみる。

 第一の要因については、ビジネス、教育、社会生活などの中に、どのような形でどの程度ICTが根付くかという点である。規模や範囲も重要であるが、最も重要なのは根付いていくプロセスである。もともと日本ではプライバシーや個人情報とICT(デジタル)社会との折り合いがついていなかった。今後どのように折り合っていくのかは注目すべき点である。折り合いがつかずにICT社会(Society5.0)の進展が進まないようであれば、アフターコロナにおいて日本は確実に後進国と呼ばれるようになる。逆に「監視社会已む無し」で折り合えば、戦前の例を引き合いに出すまでもなく、日本はファシズム国家に豹変する危険をはらむ。尾根づたいに続く狭い道を歩く様なものだが、われわれ社会科学に携わる者すべてが、その狭い道を踏み外して崖下に転落しないように力を尽くす必要があると思う。

 第二の要因については、高まるナショナリズムの中で、米中冷戦を含め中国の国際社会における位置づけがどのように変化していくかに注目すべきであることには、ほとんど異論がないであろう。とくに極東に位置する日本にとっては、中国とどう付き合っていくか、米中冷戦の中にどう割って入るか、などは国運を左右する問題であり、対応を誤ると再び国家存続の危機を迎えかねない問題である。米中冷戦の背景にICTの中核技術(5G、6Gなどの通信技術、AI関連技術等)をめぐる覇権争いがあり、第一の要因と第二の要因が密接に結びついているため、中国をめぐる国際社会秩序の変容はアフターコロナ社会に大きな影響を及ぼすことは疑いの余地がないであろう。
 また、コロナ禍長期化の中で、コロナ不況が長引くことは、国際秩序のあり方に微妙な影響を及ぼすと考える。戦前の世界大恐慌以降の世界経済の混乱に対して、植民地の拡大によって対抗するような措置は現代ではありえない。(中国だけは領土の拡大を考えているようであるが・・・。) コロナ不況に対して各国がどのような経済対策を行うかにかかっているが、希望を託す最後の拠り所はSDGsの精神である「持続可能性」ということを各国が思い出すかどうかであろう。一つの国が一時的に繁栄してもそれはあくまで一時的なものであり、けっして持続可能ではない。

 最後に日本人の立場で、私が注目しておきたいポイントを順不同で列挙しておく?
●コロナ化が日本の人口構成(少子高齢化の進展スピード)にどんな影響を及ぼすか?
●コロナ不況がどの程度の規模で、どれくらい期間持続するか?
●ICTの社会への浸透(Society5.0)は日本においてどんな領域(特に働き方、教育、流通に注目)で、どのようなプロセスで進行するか?
●東京一極集中、地方衰退の構造(政策も含めて)に変化が生じるか?
●中国が国際社会とどう向き合っていく(中国はずしの風潮はどうなる)か?

直面する課題を一つ一つ慎重に考え、行動していくことが人類すべてに求められていると思う。私のブログでも今後これらの問題を少しずつ掘り下げていくことにしたい。

未来を創るためにまずは生き残りましょう。