北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

日本の新型コロナ対策に欠落する総合的思考

 我が国の新型コロナ対策は本当に正しいのだろうか? 私はよくSociety5.0時代において人間の果たすべき重要な役割として「総合的思考」を取り上げている。しかし、現在の我が国(専門家会議)の対策が、いささか総合的思考に欠けているように思われてならない。

 

セントルイスモデルだけでよいのか?

  安部首相が2月末に「大規模イベント自粛」「全国一斉休校」を打ち出し、さらに最近では「長期戦」「ピークの先送り」という言葉をよく口にするが、これは専門家会議等の考え方を反映してのことと思う。その専門家会議の拠り所の主なものが、100年前のスペイン風邪のときのセントルイスモデルであろうと推測される。これは、100年前に世界で5000万人以上を死に至らしめたといわれるスペイン風邪の流行の際に、集会自粛と学校休校を行ったセントルイスと何もしなかったフィラデルフィアを比較した非常に有名な疫学調査に基づくものである。

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この調査結果に異を唱えるつもりはないが、これを現代の日本に当てはめる場合には、もう少し総合的な考察が必要であると考える。
第一にスペイン風邪が流行った時代は日本では大正時代中期であるが、その時代には人々の移動範囲や移動速度は今とは比較にならないくらい小さい。日常的な移動手段の大半が徒歩かせいぜい自転車であり、旅行は列車が基本であった。大勢の人が集まる機会も、学校以外では劇場かまたは特別な集会がほとんどであった。したがってこれらをつぶせば集団感染(クラスター)を防ぐことができた。ライブハウスやショッピングモールなどがどこにでもあり、簡単に全国から人が集まれる交通網をもった現代とは大きく状況が異なる。海外との人の往来の規模も当時とは比較にならない。このような考察に基づいて現在欧米では基本的に「外出自粛」「在宅勤務」が主流となっている。休校と集会禁止だけでは集団感染をとめられないため、人の動きそのものを封じるしか方法がないからである。我が国においても中途半端ではなく、明確な方向性が打ち出されるべきであると思う。

「ピークの先送り」で地獄絵図が現れる?

 さらにもう一つ日本特有の事情を考察しておく必要がある。それは今が4月であるという時期から考えた「長期戦」がもたらす新たなリスクである。7月から9月にかけて、近年の日本では集中豪雨や大型台風に見舞われることが多く、そのたびに避難所に避難する人の数が何十万人という規模になる。ピークを後ろにずらした場合、密閉、密集、密接の3つがそろう避難所に多数の人が集められるという地獄絵図が出現することになる。ピークを先送りする場合には自治体はこの避難所対策をいまからシミュレーションしておかなければならない。天の恵みがあって、今年に限っては集中豪雨も大型台風もないことを切に祈りたいが、それでは危機管理にならないので、万全の対策を考える必要性を大声で警告したい。果たして対策は可能だろうか? 感染症の専門家だけではなかなか出てこない発想かもしれないので、多くの異なる分野の人々の英知を結集して対策を総合的に検討する必要に迫られているように思う。

発信方法の工夫を

 専門家会議における総合的思考の欠落事例としてもう一つ述べておきたい。それは発信方法、表現方法についてである。専門的に、かつなるべく論理的に話そうとするのはよいが、主メッセージが国民に伝えられなければ何もならない。3月19日の会見で、「持ちこたえている」という状況よりさらに気を引き締めていく必要性を国民にわかるように表現すべきであったが、残念ながら国民には「もう自粛を緩めてもいいんだ」と受け取られてしまった。さらに文部科学省からの全国一斉休校解除の報がながれ、国民は一斉に翌日からの3連休に行楽地や繁華街に繰り出した。海外旅行に出かける者まで出てきた。専門的に正しいことを言うことも大切だが、聞き手にどう受け取られるかについて想像することも大であり、それには社会性に裏付けられた総合的思考が必要である。以前の記事にも書いたが、情報の発信にはPR(真ののPR; 公衆との間に信頼関係を築くこと)のプロをからませる必要性を強く感じる。