北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

ロシアへの経済制裁で日本が浴びる返り血

深刻さを増してきたウクライナ戦争とロシアに対する経済制裁。日本にはどのような影響があるのだろうか。ロシアに対する制裁はよく「返り血を浴びる」と言われるが、今回はこの点について、経済の視点から掘り下げてみたい。

 ■ 経済で見るとロシアは大国ではない 

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 日本の45倍の国土面積を持ち、人口は日本より2000万人多い1億4500万人であるロシアは、「大国」というイメージを持たれがちである。しかし、経済活動の規模でみると、実際にはそれほど大きくないことがわかる。ロシアの名目GDPは2021年で130兆ルーブルであるが、米ドル建てにするのにドル/ルーブルレートをどこにとるかでかなり振れ幅があるが、ここではひとまず1.5兆ドルとしている。日本は約5兆ドルなので、日本の3分の1以下というところである。経済規模だけ考えれば韓国より少し下というところである。ただし今現在ルーブルは暴落を続けており、現在のレートで換算すれば0.9兆ドル前後で、これはタイと同じくらいである。要するにロシアは「大国」と思われがちだが、経済規模の観点から見ると、到底先進国とは言えない国である。

 ■ ロシアと日本の経済関係 

 ソビエト連邦の崩壊後、ロシア経済はしばらく混乱期が続いたが、その後BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の一角に数えられる注目国となり、豊富な天然資源を背景にして多くの海外からの直接投資を呼び込んできた。日本からも商社やメーカーなどを中心にして約300の日本企業がロシアに工場や営業所を構えている。特にサハリン(樺太)における石油や天然ガスの開発事業への参画は日本のエネルギー政策にとって重要なものとなっている。ロシアの在留邦人数は現在2000名を超える状況である。

 次に日本とロシアの貿易についてみてみよう。2020年には、日本はロシアに約58.7億ドル輸出しているが、主要な輸出品は、自動車、自動車部品、ゴム製品(主にタイヤ)、機械類などである。またロシアからの輸入額は年間100億ドル前後で、ロシアへの輸出額に比べればかなり多くをロシアから輸入している。主要な輸入品目は、LNG液化天然ガス)、原油非鉄金属、石炭、海産物などである。

 また、金融に関しては、日本の民間金融機関が保有するロシア向けの債権は、メガバンクを中心として約1兆円と言われている。

 ■ 日本とロシアの経済的関係が完全に遮断されたら 

 それでは経済制裁の結果、日本とロシアの経済的関係が完全に遮断された場合に、日本にどのような影響があるだろうか。
 まず、直接投資について見てみよう。ロシアに進出した日本企業がすべて撤退するということになれば、それぞれの企業にとっては極めて大きなダメージになる。特別損失のような形で処理することになるが、ロシアは外資が撤退した後に残された実物資産はすべて没収(国有)するとしているので、清算残額が1円もないので損失は非常に大きいものになる。結果的に倒産する企業が出てくるかもしれない。しかし国家的な損失という観点からすると、サハリン1,2を除けばそれほど大きなダメージではない。サハリン事業はわが国のエネルギーの安定供給の一翼を担うものであるため、今後の日本のエネルギー政策にかなり大きな影響を及ぼすと考えられる。
 次に貿易に関してであるが、日本からの輸出については仮にゼロになったとしても自動車や自動車部品などは他の国の販路の拡張や生産調整などである程度しのげる規模だと思われる。個々の企業の中にはかなり苦しくなるところも出てくるかもしれないが、全体としてみるとそれほど影響があるわけではないと考えられる。
 しかし、輸入に関してはそれほど楽観視はできない。量的な側面と価格高騰の側面の2通りの影響が考えられる。ロシアからのLNGは日本のLNG全体の約9パーセントを占めており、何らかの形で足りない分を補わなければならない。他の国からの購入を増やすか、あるいは代替的なエネルギーに転換するかしかない。原油についても、LNGほどではないが、ほぼ同様のことが言える。またロシアから輸入されている非鉄金属の主要な品目はアルミニウムとパラジウムであるが、アルミニウムは他の国からの輸入量を増やすことで対応可能だと思うが、パラジウムは日本国内のロシア産シェアが3割を超えており、量的な不足が発生することは避けられない。パラジウムは銀歯などに使用される貴金属であるが、最も主要な用途は自動車の排気ガス浄化用の触媒としての利用である。日本が輸入するパラジウムの7割以上がこの触媒としての利用である。したがってロシアとの貿易遮断はパラジウムの深刻な品不足を引き起こし自動車の生産にかなり支障がでることになりかねない。他の主要生産国は南アフリカであるが。ロシアの抜けた穴を完全に埋めることは難しい。対応策としては少し時間がかかるが自動車鉱山(廃棄された自動車から取り出して再利用する)の開発であろう。パラジウムのほかに品不足が問題になりそうなものは海産物の一部(紅サケやズワイガニなど)である。一部の小売業にはかなりのダメージがあるが、日本全体でいえば極めて小さな影響にとどまるものと思う。

 しかし最も重要なのは、量的制約(品不足)によるダメージではなく、価格の高騰によるダメージである。ロシアは日本だけでなく世界中に原油LNG,小麦、金属などを輸出している。これらはほとんど国際価格取引が基本となる品目である。ロシアからの供給がストップすると、他国の補完的な増産(例えば中東諸国の原油の増産など)が瞬時に起こらない限り、ほぼ確実に価格の高騰が発生する。ロシアが世界に向けて供給している品目は、産業構造の最も川上にあるものが多く、価格の高騰はかなり多くの産業に影響を及ぼすことになる。日本にとって最も大きな影響をもたらすのは、数量確保の問題ではなく、原油LNG、小麦などの価格の高騰である。

 ■ 日本経済の見通し 

 ウクライナ情勢が今後どうなるのかがまったく見通せない状況なので、ロシアに対する制裁もどのような形になるのか(さらにエスカレートするかどうか)もやはり見通せない。したがって日本経済の今後の推移を予想することはかなり困難であるが、前述のとおり資源や一次産品の国際価格の上昇と、株価下落、コロナ禍の持続による景気後退が合わさって、オイルショック(1973年)以来の深刻なスタグフレーションを引き起こす可能性がかなり高いのではないかと予想する。オイルショック当時とは日本の社会構造は大きく変わっている。日本は50年間大きなインフレを経験しなかったことにより、インフレに対して非常に無防備になっている。これから10パーセント以上の物価上昇が発生した場合に、日本社会がどのような反応を示すのか、大変気がかりなところである。それでも、ロシアに対する経済制裁を緩めるべきではなく、多少の返り血を浴びてもやり通さなければならないものと思う。

未来を創造するためにまずは生き残りましょう。