北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

岐路に立つ日本経済 ~ インフレへの備えを

ロシアに対する経済制裁が短期的に解除される可能性は小さく、常軌を逸した日本銀行の政策とあいまって、日本経済にはスタグフレーションの赤信号が灯っている。国民は「自分自身を守るための行動」をとるべき時期にきている。今回はインフレ到来への「備え」について考えてみたい。

 ■ 現状認識 

 まず現在の状況をおさらいしておきたい。ウクライナ侵攻とそれに伴うロシアへの経済制裁によって、世界的にエネルギーや小麦などの価格高騰が発生した。しかし実はそれ以前からエネルギー価格に上昇トレンドが発生していた。それはコロナ後の原油の需要増を見越した先物価格の上昇に引っ張られる形で世界を覆っていた。その状況下でロシアからのエネルギー供給が遮断されたため、石油や天然ガスの世界的な逼迫は疑いの余地のないものになったわけである。
 小麦などの穀物に関しては、ロシアもウクライナも世界有数の産地なので、そこからの輸出が途絶えると世界的に不足が発生することを予想するのは自然なことである。実際のところそこまで小麦の需給がひっ迫しているわけではないが、エネルギーも穀物も国際価格であり、相場が存在し先物が存在する。したがってある程度予想を先取りして価格変動が起きる。ウクライナ危機が長期化の様相を見せており、ロシアへの経済制裁も1年や2年では終わらない可能性が出てきているため、エネルギーや穀物相場の高止まり傾向は簡単には終わりそうにない。

 日本国内においても徐々に光熱費や外食価格などが上昇基調になってきている。とは言っても、3月の消費者物価指数総務省発表速報値)は対前年同月比で1.2パーセント程度の上昇、生鮮食品とエネルギーを除いた指数ではいまだマイナス0.7パーセントである。すなわち、エネルギーと生鮮食品を除くと依然として物価は下落しておりデフレ傾向が継続していることがわかる。それでも私は3月以降ずっとインフレやスタグフレーション到来の警鐘を鳴らし続けてきた。以下でその根拠についてお話したい。

 ■ 円安と日銀の態度 

 私がインフレの到来を確信する最大の理由は、円安の進行とそれに対する日本銀行の態度である。ウクライナ危機とは無関係に欧米では、コロナ対策による過剰流動性の供給(大規模な金融緩和)とコロナ後の需要の過熱を背景としてインフレ傾向が顕著に見られるようになり、多くの国で中央銀行による金融引き締めと利上げ政策が予想される状況である。実際アメリカを中心として長期金利は上場傾向にある。これに伴って日米の金利差が開くことがはっきりしてきたため、外国為替相場は急激に円安に振れ始めてきたわけである。
 これに対してわが国の中央銀行である日本銀行は、円の防衛を行うどころか、低金利政策を死守することを宣言した。実際には国債指値オペ(一定の価格で国債を無制限に買い上げる)を行うことによって国債の価格を維持し長期金利が上昇することを必死でブロックし始めている。最初にこの政策が実施されたときには「???」という感じで見ていたが、この政策を継続するという宣言が行われた段階で市場は日銀の態度を見切り、2円以上円安に振れ一気に130円を突破する事態となった。

 日銀が円防衛のために利上げに踏み切れない理由は何であろうか。推測の域を出ないが、一つはここで利上げに転換すると、コロナ後のせっかくの景気回復ムードに水を差すようなことをする、と世間から見られかねないことが挙げられる。実際に早期に景気回復基調になるかどうかは定かでないし、そもそも多くの企業が設備投資に慎重な状況の中で多少の利上げが景気に水を差すかどうかも定かではない。しかしそれでも参議院選挙前であることもあり、景気回復を邪魔する政策を行うということは内閣としては避けたいところだろう。
 もう一つの理由として考えられるのは、国債の利払いの増加に対する財務省からの圧力である。日本の国債発行残高(政府短期証券TBを除く)は約1000兆円あり、長期金利が1パーセント上がると利払いが10兆円増加する。国家財政を預かる財務省側からすると何としても阻止したいというのが本音であろう。
 現在(2021年度末)の日本の国債保有割合を見てみると、48パーセントは日銀保有しているため、利払いの半分近くは日銀に還流する。国庫の赤字が増え、財務省的には面白くないが、実体経済には大きな影響を及ぼさない。ただしそれ以外の国債保有は、民間銀行、生損保、年金などの機関投資家が約42パーセントあり、家計保有は1パーセント程度である。問題となるのは「海外」が保有している約8パーセントの動向である。円安の進行に伴って海外投資家が日本国債の売りに出れば、市場の中に国債価格の下落(国債利回り上昇)圧力が発生する。このとき日銀は、国債価格の下落(利回り上昇)を防ぐために、売りに出された国債を一定の価格ですべて買い取ると宣言しているわけである。これが「国債指値オペ」の本質である。もちろんこの行動によって円安はさらに加速することは明白である。
 現在の消費者物価はまだ円安の影響を反映してはいない。現在市中に出回っている輸入品の多くは円安進行以前に契約されたものだからである。円安の影響が実際の消費者物価に本格的に表れ始めるのはこれからである。5月中に円安を止めなければ6月のインフレ率はかなりの水準になると予想されるのである。日本銀行に通貨を防衛する意思がない以上、この予想はかなりの確率で現実のものになると思われるので、企業、家計ともにインフレのリスクに対してある程度の「備え」を急ぐべき時期ではないかと考える次第である。

 ■ なぜインフレに備えなければならないか 

 日本は第一次オイルショック以降約半世紀にわたって大きなインフレを経験していない。インフレとはどういう状況なのかを実感として知る人はかなり少なくなってきている。備えろといってもどうすればよいかなかなか分からない。まずどのようなことが起きるのかを頭の中でシミュレートすることでイメージを鮮明化してみよう。

 第一次オイルショックによるインフレ期(1973~1975)では、3年間で消費者物価はおよそ1.5倍になったが、同時にこの3年間で賃金水準もほぼ1.5倍になっている。昭和50年の春闘をご記憶の方も多いことと思うが、20~30パーセントのベースアップを勝ち取った組合もかなりたくさんあった。国鉄の「スト権スト」などという不思議な長期ストが行われたのもこの時期である。しかしながら現在わが国の労働組合にこの時のような力はない。さらに派遣や契約社員の増大によって、春闘などによる賃上げの恩恵を受けない世帯が大量に存在している。したがって今回はインフレのダメージがまともに家計にのしかかると考えるべきである。

 本来、理論上は賃金、物価、資産価格などありとあらゆる価格が同じ比率で変化しても経済には何の影響もない。これは物理学でいうところの「静止」と「等速直線運動」が同じであることと同様である。しかし今回の場合は、モノの価格上昇に賃金(労働の価格)上昇が追い付かない可能性が高く、何らかの防衛策が必要になるということである。資産価格に関しても同様のことが言える。名目金利がインフレ率と同じであれば資産は目減りしない。しかし上述したように日銀が金利を抑え込むような政策を続けるのであれば、実質金利はマイナスとなり、資産はかなりの勢いで目減りしていくことになる。
 一定額以上の資産を保有している場合は、何らかの資産防衛策を講じる必要がある。ちなみに金融機関側から見ると、日銀の金利政策を背景にして預金金利は容易には上げないと思われるが、貸出金利は容赦なく上げてくると思われる。銀行員の給料を上げなければならないからである。これを家計側から見ると、定期預金などの金利は低いままで、住宅ローンやカードローンなどの金利が上昇するということになる。

 次にモノの値段の上がり方について考えてみよう。まず直接的な影響を受けているエネルギー価格は先行して値上がりし、それが輸送費(ガソリン代)の上昇を通じてあらゆるモノに価格上昇圧力をかける。しかし小売りの競争状況によっては簡単に価格転嫁できないものも多い。この場合小売店のとる方向が2つある。一つは人員削減などのコストカット、もう一つは値段を変えずに数量を縮小させる「ステルス値上げ」である。前者の方向はどこの店もやり始めるが、後者の方向が可能なのは限られた商品だけであろう。しかし消費者側から見ると、この際、「いつもモノを買い過ぎていないか」「いつもフードロスをしていないか」など自分自身の消費生活パターンを見直す良い機会なのではないかと思う。

 一つだけ注意すべきこととしては、デマに対する警戒である。このような経済の混乱期には必ずと言ってよいほど、モノの買い占めとデマの拡散によって利益を得ようとする輩がでてくる。第一次オイルショックのときにトイレットペーパーがなくなるというデマが流れ、スーパーに行列ができたのを記憶している人も多いと思う。SNS全盛の現代においてはデマの拡散は当時とは比べ物にならないほど速い。もちろんデマに踊らされないことが必要であるが、マスコミもデマをブロックする責任を果たしてほしいと強く思う。

 ■ 具体的な備え方 

 それではインフレに備えるとは具体的にどうすればよいのかについて家計レベルで見てみよう。物価が上がり賃金が上がらないという状況が始まるわけだから、まず必要なのは、上でも述べたように、自分自身の消費構造の再点検である。無駄なモノを買ってはいないか、数量を買い過ぎてはいないか、などを徹底的にチェックして消費支出の無駄を切り落とすことから始めるべきである。無駄を切るだけなのでそれほど生活レベルが下がったという実感なくできると思う。物価水準がさらに上がるようであれば、ぜいたく品、ぜいたく消費をカットしていくことになるが、まずは無駄の削減からという方向をお勧めしたい。このような消費行動の慎重化は景気の上昇に水を差す(不況を深刻化させる)かもしれないが、個人の防衛策のレベルで考えるとそんなことは言っていられない。自分の身を守る方が優先であろう。
 家計点検のもう一つは返せるのに返していないローンのたぐいがないかどうか点検する必要がある。特に変動金利ですぐに利上げされるものは要注意である。カードローンやリボ払いなど放置されがちなものを再確認しておくことをお勧めしたい。預金金利は上がらなくても借入金利は簡単に上がるからである。

 最後に資産について、とりわけ1000万円以上の名目資産(円建て金融資産)を保有している場合について述べたい。実質金利が大きくマイナスになる可能性があるため、資産が目減りするリスクを回避する必要がある。一般論としてはインフレリスクを回避(ヘッジ)する方法は、名目額が固定されている金融資産の一定割合を実物資産(リアルアセット)に移すことである。念のために断っておくと実物資産といっても現物そのものを買うわけではなく、現物を証券化したものまたは現物価格と連動する証券である。前者の代表は株式やモーゲージ(不動産)証券、後者の代表は投資信託である。しかしこれは言うほど簡単なことではない。リアルアセットには変動リスクの大きいものが多いからである。
 これからの絶対に考慮しなければならないことは、国際情勢の不安定さである。例えば尖閣諸島有事となればたちまちにして日本株は暴落する。中国に進出しているすべての日本企業はまったく身動きがとれなくなるからである。(国際情勢に関する詳細は後日の原稿に譲りたい。) したがって日本株についても中長期的には一定のリスクを伴うことを覚悟するべきことになる。

 ではどうすればよいであろうか。有力な候補は「金」である。もともと金はインフレに強いと言われているが、実際ニクソンショック(金とドルのリンクが切れた)1971年から1980年までの10年間で世界は2度のオイルショックを経験しているが、その間の金の価格を見てみると、1971年の金の平均価格が775円、10年後の1980年の平均価格が4499円であり、実に10年で5倍以上になっている。21世紀初頭の同時多発テロイラク戦争期にも金価格は跳ね上がり、経済変動期には金はラストリゾート(最後の拠り所)としての力を発揮する。現状のような不安定な時期には、少なくとも資産の一定割合(2~3割)は金(実際には金の地金を保有するわけにはいかないだろうから金連動型投資信託)を保有することをお勧めしたい。
 残りは安全運用でもよいが、少し冒険するなら海外成長株(ハイテク株、AI株など)組み込み型の投資信託などを一定割合入れても良いかもしれない。日本株には上述のチャイナリスクもあり、また成長ハイテク株はほとんどない。

 ■ 政策論として一言  

 日本経済はこれから深刻なスタグフレーションに見舞われるかもしれない状況のなかで、最後に日本経済のかじ取りについてひとこと言いたい。通貨の番人としてのプライドを捨てた日本銀行、国民生活より財政バランスの財務省、選挙優先のばらまき政治家、日本の経済政策を真剣に考えているのは誰なのか。25年前にアジア通貨危機を経験し、成長性の高い産業分野に向けて産業構造をシフトさせていく必要がありそのための人材育成が必要であることは自明であったしほとんどの官僚や企業家はそのことを理解していた。にもかかわらず、生産性の低い企業が温存され産業構造の転換は遅々として進まなかった。日本はこれまで30年間にわたって(失われた30年)経済政策を間違え続けてきたが、現今の危機に際して、これまでのツケを一気に支払わなければならないかもしれない。そのツケを払うのは国民である。

 2022年、世界史は一つの転換点を迎えている。同時に日本経済も大きな岐路に立っている。自分の身は自分で守るしかない。

未来を創造するためにまずは生き残りましょう。