北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

安倍晋三元首相の死を悼む

安倍元首相は小学校から大学までを成蹊学園で過ごし、1977年に成蹊大学法学部政治学科を卒業した。一人の卒業生の命が、理不尽な凶弾によって無残に摘み取られてしまったことに対して、深い悲しみと強い怒りを禁じえない。ここに、心から安倍晋三さんのご冥福を祈り、哀悼の誠を捧げたい。

 

 ■寂然不動 

 私の故郷の山口県山口市菜香亭(さいこうてい)」山口県山口市天花1-2-7)という文化施設がある。もともとは明治10年に建てられた料亭であり、伊藤博文井上馨山縣有朋など維新の元勲がひいきにしていた場所である。現在は観光施設となっている。その建物の中に百畳敷きの大広間があり、そこに多くの有名人の手による書の扁額が掛けられている。その中には多くの歴代総理大臣のものも並んでいる。もちろん、山口県出身の歴代総理大臣の書も並んで掛けてある。安倍晋三さんは在任中に「寂然不動(じゃくねんふどう)」と書いた書をここに収めている。

 この言葉は禅語として紹介されることも多いが、もともとは易経の一説「易無思也、無為也、寂然不動、 感而遂通天下故、非天下之至神、其熟能与此、(易は思うこと無きなり、為すこと無きなり、寂然として動かず、感じて遂に天下の故に通じ、天下の至神にあらずんば、そのいずれかよくこれにあずからん。)」から出ているもので、人間の感情や所為をすべて取り除くことによってはじめて天の摂理を感じることができる、というような意味である。後に寂然不動は様々な解釈が加えられるようになり、「周囲にさまざまな喧騒があっても、私心を捨て心静かに生きる」といった禅的な意味で用いられることも多くなった言葉である。
 実はこの「寂然不動」という言葉は成蹊学園の中にも2か所掲げられている。一つは理事長室であり、もう一つは弓道場である。これらは三菱財閥第四代総帥岩崎小弥太の手による書を写版したものである。
 私は安倍晋三さんと何度かお話をする機会があった。山口県の話でしばしば盛り上がった。最後にお話をした折(2019年)に、「安倍さんが山口市菜香亭に収めた寂然不動の書は、成蹊学園にある岩崎小弥太の書と関係していますか。」と尋ねてみた。そのとき安倍さんからは「この書を収めたときは、この言葉が成蹊学園にもあることは知らなかった。」と答えられていた。それでさらに「どうしてこの言葉を書こうと思われたのですか。」と尋ねた。「実は伊藤公が・・・・・」と言いかけたところで別の用事で退席されたので続きを聞くことができなかった。今となってはこの続きを聞くすべはない。ただただ無念の思いである。

2019年成蹊大学10号館12階にて(周囲カット)

 ■アベノミクス 

 第二次安倍内閣在任中に打ち出された経済政策は総称してアベノミクスと呼ばれている。経済学者として、あらためてこの経済政策を簡単に振り返ってみたい。アベノミクスは「日本再興戦略」改訂2014(成長戦略2014)の中でうちだされた経済政策パッケージで、大胆な金融政策(第一の矢)、機動的な財政政策(第二の矢)、民間投資を喚起する成長戦略(第三の矢)によって構成されている。折しも東日本大震災の後、日本は急激な円高に見舞われ不景気にあえいでいた。民主党政権退陣の後を受けた第二次安倍内閣が、緊急な景気のテコ入れを模索することは自然なことであった。このアベノミクス政策パッケージとしてはまったく理にかなったものであり、「計画」や「方向性」に誤りはなかったと思う
 第一の矢は黒田日銀総裁就任により強烈に放たれた。「黒田バズーカ」とか「異次元の金融緩和」と呼ばれた。第二の矢も10兆円規模の財政出動など「機動的」とは言えないまでも何とか放たれた。この段階である程度の景気回復の兆候が見え始めていた。第一の矢により、為替レートは急激に円安に振れ、金利もゼロ金利、マイナス金利という水準にまで低下した。しかし当時このような極端な金融緩和政策がその後10年近くにわたって続けられようとは予想もできなかった。多くの経済学者は短期的なやむを得ない政策だと考えていたと思う。
 第二の矢は金額的にはある程度の規模を持ってはいたが、残念ながらそれが呼び水となるような内容を持つにはいたらなかった。多くの政治家、企業などがアベノミクスの恩恵に群がろうとした。結果的に円安を背景としたインバウンドの拡大によって景気を支える方向で財政支出が拡大していった。民間企業の内部留保は金融緩和によって膨れ上がり、安い価格の製品は中国に爆買いされ続けた。生産性が低い企業でも楽々と操業を続けられ、新しい分野への投資意欲は一向に高まらなかった。

 日本という国にありがちなプロセスである。計画やビジョンが優れていても、それを具体化していく各論の段階になると非常に複雑な合意形成プロセスに乗せる必要があり、その利害調節の過程の中で、当初のビジョンをねじ曲げてでも最も利害対立のない状況に落ち着こうとするもののであるアベノミクスも例外ではなく、この日本的合意形成のプロセスに飲み込まれていった。 それでも安倍首相は「未来投資会議」などを創設して、2020年に辞任する直前まで懸命に第三の矢を模索し続けた

 それでは日本はどうするべきであったのだろうか。実は未来投資会議においてすでに結論は出ている。本来は2015年ごろの段階で、この未来投資会議で取り上げられているような投資戦略を政府と民間が一体となって進めていく必要があった。多様な働き方を促進する雇用制度改革、ITインフラ投資(制度整備)、地産地消のエネルギー政策(再生エネルギー開発投資)、などである。このような政策の必要性を多くの政治家や官僚、学者たちが認識していたにもかかわらず、具体的な政策は実際には遅々として進まなかったのである。
 いま日本がやらなければならないことはほぼ明らかであり、与党は安倍晋三という象徴的な存在を失ったけれども、第三の矢を引き絞って放てるかどうかは次に続く人たちの肩にかかっていると思う。何もしなければ日本は貧しい国へと没落を続けることになる。 一歩踏み出せば必ず前に進む。