北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

笑えるほどチグハグ ~ まるでコント

新型コロナ第3波襲来の中、最近の政治家や知事の発言や政策を見ていると、やることなすことすべてチグハグで、まるでコントを見ているような気になる。日本はなぜこんな状態になってしまったのだろうか。

 

 ■ チグハグ劇場

 コントのスタートは第2波の真っただ中でGoToトラベルをスタートさせたところからである。その後、「秋冬に備えなければ」と言いながら、10月に感染が抑えきれていない東京を対象に加え、GoToイートもスタートさせた。先週感染拡大が過去最大を更新する中で、食事クーポン券の販売が始まった。

 GoTo停止を求める多くの声に対して、「GoToと感染拡大の因果関係はない」と断言したにも関わらず、今後の感染見通しを問われると、「神のみぞ知る」と答える。

 GoToイートによる会食の感染リスクが報じられると、国民の気の緩みを指摘し「静かにマスク会食」「五つの小」を勧める。そもそもマスクして会食するぐらいなら始めから会食などしない、というのが庶民感覚だが、総理自身は自分を庶民派と自称している。

 昨日やっと重い腰を上げて、「GoTo見直し」を言い始めたが時あたかも連休初日で大勢の人が旅行に出かけた後、観光地も駅も空港も人でごった返した日の夕方である。おまけに「見直し」とは言ったが実施時期も対象地域も明言することはなかった。

 「感染拡大地域を目的とした」「新規の」予約を停止する方針のようだが、その一方で感染拡大している国からのビジネス来日は緩和の一途をたどっている。

 どうなっているんだろう、何がやりたいんだろう、と首をかしげたくなる人は多いと思う。ここまでチグハグだともはや批判する気にもなれず笑うしかない状態。しかし、旅行や会食はやらなければ済むが、医療崩壊は自助ではどうにもならない。通院が必要な病気を持っている人はどうすればよいのだろうか。政府や政治家の人たちの対応は、医療崩壊防止にも感染拡大防止にも弱者救済にもなっていない。そこには優先順位もなければ戦略もない。私たちはいつまでコントを見させ続けられるのだろうか

 ■ GoToキャンペーンはなぜダメなのか

 少し前のブログで私はGoToは「亡国の政策」と書いたが、学生から、「GoToは経済を回すために必要ではないのか、どうしてそんなにダメなのか。」という質問を受けることがある。少しGoTo問題の本質について述べておきたい。

 まず「経済を回す」という言葉であるが、いったいいつから観光業や飲食店が日本の「経済」を代表する存在になったのか。たしかにこれらの業界はコロナのダメージを強く受けている。しかしダメージを受けた業界は他にもたくさんある。GoToデパートとかGoTo遊園地とかにならないのはなぜか。

 弱者救済の観点から考えると、派遣切りや契約社員雇止めの方がはるかに重要で多くの困窮者がいる。経済を回さないと自殺者がたくさん出るという人が多いが、飲食店や観光業者が潤っても失業した人たちを吸収する力はほとんどない。

 何より問題なのは、GoToが人々の消費行動を政策的に歪める行為だからである。本来政府が人々の消費に介入することが正当化されるのは理念的なビジョンがある場合である。例えば、排気ガスの少ない車を買うと安くなる、太陽光パネルを自宅の屋根につけると補助金がもらえる、などは一定の消費誘導が政策理念に基づいているものである。しかし、感染症が拡大しているときに、旅行に行くと安くなる、レストランに行くと安くなる、といった消費介入を正当化する根拠はほとんどない。唯一の根拠は困っている旅館やレストランにカネを落とせ、というメッセージだけである。

 経済対策、景気対策という観点からはもっと根拠が薄い、国民が自宅食事をやめて外食をしたとしてもGDPに及ぼす効果は微々たるものである。一日三食食べることに変わりはないからである。つまりGoToイートではなくGoToテイクアウトとしても効果は同じであろう。

 さらに問題なのは、GoToキャンペーンは「ウィズコロナ」「ニューノーマル」に向かう社会変革を阻害することである。国家介入によって潤った業界は変革意欲が減退し、国家によってインセンティブを与えられた消費者はその価格に慣れていく。実際宿泊やレストランが価格を通常より1~2割値上げして、GoToの利益を最大限に吸い上げようとする動きが現実に生じており、逆にGoTo対象外になっている飲食店からは客足がどんどん遠のいている。

 もし補助金を出すならGoToテイクアウトを行い、インターネット通販やデリバリーサービスの体制を多くの飲食店や土産物屋に推進してもらう方が、はるかに時機に合った政策だと思う。また、GoToキャンペーンに数千億円のお金を使っているが、自殺者増大を防ぎたいのであれば、失業者、廃業者に給付した方がはるかに有用である。

ただし、いま一番急ぐべきはここではない、医療機関への資金的・人的・物的補助である。

 ■ 教育現場も状況は同じ

 文部科学省文部科学大臣は先週各大学に向けて「対面授業」を強く求めている。対面授業をやらない大学は大学名を公表するということになっている。この背景には対面授業は善であり、オンライン授業は悪であるという一次元的な価値基準が横たわっている。

 しかしそれと同時に、教育のデジタル化、エドテックの推進、などの教育のICT化も強く求めている。実際、「いつでも、どこでも、何度でも」見ることができるオンデマンド型の動画授業は、今後の教育の中で重要な役割を果たしていくことは疑いの余地がない。さらに配信される教材がAIによって受講者ごとにパーソナライズされていくための研究が盛んに行われている。

 小学校から高校までの学校が5月ごろから急激に対面授業に戻ったのは、設備と教員のスキルが追い付かなかったからである。これを放置して、対面授業こそ善、という価値観を植え付けることは今後の教育のあり方に暗い影を落としているように思える。

 対面授業再開圧力の文脈で最近特に、大学を含め「学校」の役割として、学問の習得だけではなく、コミュニケーション能力向上や対人関係構築スキルなどの重要性が強調されることが多い。しかしこれは大学にとって「もろ刃の剣」である。たしかに学生の対人スキル向上は重要な大学の機能であることは疑いの余地がないが、それはあくまで「機能」である。コミュニケーションや対人関係構築などの人間的スキルの向上を担うだけであれば大学である必要はない。地域のクラブ組織の中でことなる年代の子供たちがスポーツや芸術などに打ち込むことで、対人的なスキルの向上は十分に期待できる。

 子供たちが「学校」がすべてではなく複数の組織に帰属するようになれば、「学問の習得」に成果を出せない学校(少なくとも大学)は存在意義を失うことになる。アフターコロナにおける教育システムの問題については稿を改めて論じることにしたい。ここではひとまず教育機関もチグハグなコントに付き合わされていることだけ指摘しておきたい。コロナ感染が急拡大していくと、政府は再び小中髙に一斉休校を求めるのだろうか。コントなので先がまったく読めない。

未来を創るためにまずは生き残りましょう。