北川浩の徒然考

私は2016年から成蹊大学の学長を務め、6年間の任期を無事に全うして2022年の3月に退任しました。本ブログは成蹊大学の公式な見解とはまったく無関係なものであり、あくまで社会科学を探求する一人の学者としての北川浩個人の考えを表示しています。

コロナ後の社会を考える1 - 「アフターコロナ」か「ポストコロナ」か?

そろそろ私の研究テーマに近い経済社会構造の話に向かいたいと思います。ただ初回は軽iい話題で申し訳ないですが、言葉の問題だけ取り上げておきます。「アフターコロナ」か「ポストコロナ」か、が主題です。巷には両方の言い方があふれているので。

 

 英語の語感としては、ポスト〇〇は〇〇の次にくるものを指しているので、例えば「ポスト安倍を狙っているのは誰か?」などのような使い方をする。哲学や芸術などでよく見られる「ポストモダン」「ポストモダニズム」などの言い方も、近代主義(合理主義、進歩主義)などを批判し、それにとって代わる考え方として示されたものである。したがって、ポストコロナ社会という言い方をする場合は、前提として「プレコロナ社会」「withコロナ社会」などがあって、それに代わるもの(後継)としての「ポストコロナ社会」ということになる。コロナによって社会構造がいったんリセットされ、後継社会が出現するというようなニュアンスになるだろうか。

 他方、アフターコロナは時間軸の中で、時間的にコロナ以前かコロナ以後かに分ける考え方である。変わるものもあれば変わらないものもある。コロナ以後の社会の有り様を予想するということであれば、アフターコロナを使うのがしっくりくる。

 コロナ後の社会を考える、というとき「アフター」か「ポスト」かのどちらを使うべきか悩むところであるが、さしあたりより一般性の高い「アフター」を使用することにしたい。わが国では、コロナ以前から経団連や政府を中心にして「Society5.0」という言葉を定着させようとする動きがある。この言葉には現実空間とサイバー(バーチャル)空間を融合させた創造的な社会を目指すという意図が込められており、このながれはコロナ以前であれコロナ以後であれ変わるものではないからである。つまりコロナ以前には「Society5.0」であったものが、コロナ以後になると「Society6.0」になるわけではないからである。

 しかしそれでもコロナ以後には変わるものがたくさんあるだろうと思う。人々の意識や価値観の変化などが、なんらかの社会構造の変化、生活様式の変化などを引き起こすことは十分に考えられる。したがって、私は自身の記事の中で、さしあたり「アフターコロナ社会(After Corona Society)」を用いるが、世間的に「ポストコロナ社会」の方が市民権を得るようになるのであれば、使用語を「ポストコロナ社会」に切り替えることとしたい。もともと「言葉」は本来の意味がどうであれ、市民権を得た使用法がつねに正しいのだと考える。。例えば、日本では「ベビーカー」というような不思議な英語?が市民権を得ているわけだから、世間一般の使用法に抗うことなく、広まった方の言葉を使うことにしたい。

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